平成28年は、詩集『雨ニモマケズ』や童話『銀河鉄道の夜』などで知られる宮沢賢治の生誕120周年。今でこそ知らぬ人のない大作家ですが、生前に刊行された作品は詩集1冊、童話集1冊のみで、ほぼ無名の存在だったといいます。そんな宮沢賢治が生まれたのは現在の岩手県花巻市、そして37歳の若さで没したのもまた花巻の地でした。
2016年07月20日
平成28年は、詩集『雨ニモマケズ』や童話『銀河鉄道の夜』などで知られる宮沢賢治の生誕120周年。今でこそ知らぬ人のない大作家ですが、生前に刊行された作品は詩集1冊、童話集1冊のみで、ほぼ無名の存在だったといいます。そんな宮沢賢治が生まれたのは現在の岩手県花巻市、そして不世出の天才が37歳の若さで没したのもまた、故郷の地、花巻でした。
平成28年は、詩集『雨ニモマケズ』や童話『銀河鉄道の夜』などで知られる宮沢賢治の生誕120周年。今でこそ知らぬ人のない大作家ですが、生前に刊行された作品は詩集1冊、童話集1冊のみで、ほぼ無名の存在だったといいます。そんな宮沢賢治が生まれたのは現在の岩手県花巻市、そして37歳の若さで没したのもまた花巻の地でした。
宮沢賢治は明治29年(1896年)、当時の岩手県稗貫郡里川口村(ひえぬきぐん さとかわぐちむら)で質店の長男として生まれました。裕福な家庭に育ちながらもその家業を通じて、凶作にあえぎ家財を売って糊口をしのぐ、農民の暮らしぶりを目の当たりにしていたといわれます。旧制盛岡中学校卒業後、一度は家の方針に従い家業を手伝いますが、向学心から翌年になって盛岡高等農林学校へトップの成績で進学。卒業後は研究生になり、生涯の親友となる保阪嘉内(ほさかかない)に出会います。賢治はこの頃から童話の創作を始めたのではないかといわれていますが、一方で肋膜炎を患い、自らの短命を予感して「自分の命もあと15年はあるまい」と友人に伝えたのもまたこの頃だったのです。
その後、一度は上京するもすぐに花巻に戻り、よき理解者であった妹を病で失い……と紆余曲折を経て、花巻で農学校の教師となった賢治は、在職中の大正13年(1924年)に先述の詩集『春と修羅』、童話集『注文の多い料理店』を刊行。大正15年(1926年)にその職を辞し、若い農民とともに私塾「羅須地人協会(らすちじんきょうかい)」を花巻市内へ設立すると、昼は農作業、夜は科学や農業技術などを教える自給自足の生活を始めます。農業指導に励むかたわら、農村文化を創造せんと充実の日々を過ごした賢治でしたが、昭和3年(1928年)の夏には過労のため、実家での療養を余儀なくされることに。回復後、石灰肥料の宣伝販売などに従事するもまた病に倒れ、晩年は療養生活のかたわら創作活動を続けたのでした。
画像提供:宮沢賢治記念館
仏教への信仰が厚かった宮沢賢治。彼の手帳に記された“経埋ムベキ山”(経文などを埋めるべき山)のひとつ、胡四王山(こしおうざん)の中腹にあるのが「宮沢賢治記念館」です。平成27年春にリニューアルされ、文学にとどまらずさまざまな活動を繰り広げた宮沢賢治について、環境や芸術、農村といった部門ごとに展示しており、その足跡を多面的にたどることができます。
画像提供:花巻市 賢治まちづくり課
「宮沢賢治童話村」は、宮沢賢治の童話作品が持つ独特の世界観をモチーフにした学習施設です。映像や音、ジオラマなどで作品世界を体感できる「賢治の学校」、同じく童話作品に登場する植物や動物、天体、石に関する展示棟「賢治の教室」などに加えて、散策しながら宮沢賢治の世界に思いを馳せることができる小道や山野草園なども整えられています。
画像提供:花巻市 賢治まちづくり課
画像提供:宮沢賢治イーハトーブ館
宮沢賢治が故郷岩手をモチーフに思い描いていたという夢の世界“イーハトーブ”。その名前を冠した「宮沢賢治イーハトーブ館」は、誰でも自由に宮沢賢治の世界に触れることができる場所です。イーハトーブに関連する図書や研究論文、芸術作品のコレクションを公開しており、宮沢賢治の愛好者・研究者交流の場「宮沢賢治学会イーハトーブセンター」の本拠もこちらにあります。
画像提供:宮沢賢治イーハトーブ館
ご紹介した「宮沢賢治記念館」「宮沢賢治童話村」「宮沢賢治イーハトーブ村」はいずれも徒歩で数分~15分程度とご近所同士。自然豊かな胡四王山の風景はかのイーハトーブを彷彿させるものがありますし、「注文の多い料理店」にちなんだレストランや花巻市博物館など、近隣にもたくさんの見どころがあります。花巻市街からはやや離れていますが、ぜひゆっくり時間を取って訪れてみてください。
※掲載されている情報は平成28年6月現在のものです。
画像提供:宮沢賢治記念館