2016年05月23日

文豪ゆかりの地|川端康成ゆかりの地・茨木(大阪府) 大作家が文学を志すに至った“私の村”

川端康成の晩年の随筆「茨木市で」には、“私の村は現在茨木市にはいってゐる。京都と大阪との中間の山裾の農村で、その山を深くはいれば丹波である。村の景色に藝はないけれども、近くに「伊勢物語」や「徒然草」に書かれた所がある。”というくだりがあります。川端は、この“私の村”こと旧大阪府三島郡豊川村(現在の大阪府茨木市)で、物心つく頃から旧制中学校卒業まで過ごしました。


川端康成の晩年の随筆「茨木市で」には、“私の村は現在茨木市にはいってゐる。京都と大阪との中間の山裾の農村で、その山を深くはいれば丹波である。村の景色に藝はないけれども、近くに「伊勢物語」や「徒然草」に書かれた所がある。”というくだりがあります。川端は、この“私の村”こと旧大阪府三島郡豊川村(現在の大阪府茨木市)で、物心つく頃から旧制中学校卒業まで過ごしました。

茨木市で多感な時期を過ごした川端康成

画像提供:茨木市立川端康成文学館

 

明治32年に生まれ、両親を結核で早くに亡くした川端は、3歳で父方の祖父母に引き取られ、現在の茨木市に移ります。小学校へ上がった年には祖母も亡くなり、10歳の時には他家へ引き取られた姉も夭折。たった1人の肉親であった祖父も、川端が大阪府立茨木中学校(現在の大阪府立茨木高等学校)の3年生となった年に世を去ります。家族を次々と失ったことは、いうまでもなく川端に大きな影響を与え、病気や早死に対する恐れ、母性への憧れなどは後の作品にも反映されています。

書店で文学書を買いあさった少年時代

小学校高学年で図書館の本を全て読破し、中学2年にして作家を志すようになった川端は、日々の飲食を切り詰め、書店でも多くの文学書を求めたといいます。当時通っていた書店のひとつが「虎谷誠々堂書店(とらたにせいせいどうしょてん)」。本店は現在建て替えられて事務所のみになっていますが、その入口には創業当初からの看板が掲げられています。同じく川端が通った「堀廣旭堂(ほりこうきょくどう)」も、店舗は新しくなっていますが、やはり店頭に創業当時の看板を残しています。近隣は古くからの店構えが残る場所も多いですから、散策しながら、川端の少年時代に書かれた「十六歳の日記」の頃に想いを馳せてみるのもよいかもしれません。

“川端通り”の先には「川端康成文学館」

画像提供:茨木市立川端康成文学館

 

茨木市役所そばの高橋交差点から北へ向かう並木道は「川端通り」と名付けられ、道なりに歩くと十数分ほどで「茨木市立川端康成文学館」が見えてきます。建物正面にある石碑には、先述した随筆「茨木市で」の一文が刻まれています。
ここでは、川端の遺品や書簡、著書、原稿のほか、写真、ビデオなど約400点の資料が常設展示され、随時企画展も開催されています。祖父母と暮らした屋敷の1/20模型や、晩年を過ごした神奈川県鎌倉市の書斎を再現し、実際に座って作家体験ができるコーナーなど工夫を凝らした展示も楽しめます。また、川端の生まれ月である6月には、併設のギャラリーで生誕月記念企画展なども開催。茨木市の川端康成ゆかりの地めぐりでは欠かせないスポットとなっています。

画像提供:茨木市立川端康成文学館

 
【茨木市立川端康成文学館】
住所:大阪府茨木市上中条二丁目11-25
電話番号:072-625-5978
営業時間:9:00~17:00
休館日:火曜日、祝日の翌日、12月28日~1月4日
入場料:無料

母校には晩年の筆跡を残す文学碑

茨木市役所から南に5分ほど歩くと、川端の母校である大阪府立茨木高等学校(当時は大阪府立茨木中学校)があり、正門に「以文会友(いぶんかいゆう)」の文字を刻んだ石碑が建てられています。1968年に川端がノーベル文学賞を受賞した折、学校の依頼で揮毫したものです。「以文会友(文を以て友を会す)」は、かの『論語』にある言葉で、「(君子は)学問を通じて友人を得る」といった意味がありますが、川端は“文(学問)”は文学に限らず、文化一般や心の面など広い意味で解釈できるという挨拶を残したとか。このとき川端が書した色紙の実物は一般には公開されていませんが、現在も同校の同窓会館で展示されているそうです。

茨木市で、決して明るいばかりとはいえない幼少~少年時代を過ごした川端康成。それでも、晩年の作品である「茨木市で」では、彼の地を“私の村”と呼び、また母校の後輩のためにも筆を振るっています。川端の故郷への想いがいかに複雑なものであったかは想像に余りありますが、さまざまな作品ににじみ出るその断片を噛み締めながら、静かに旅してみるのはいかがでしょうか。

※掲載されている情報は平成28年4月現在のものです。