和歌山県・紀伊山地の山奥。はるか昔、弘法大師が開いた天空の霊場が「高野山」です。この地は日本を代表する真言密教の聖地であり、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」のひとつでもあります。そこで今回は、高野山の歴史や、壇上伽藍(だんじょうがらん)(以下画像)などの代表的な見どころに迫ります。
2018年09月20日
和歌山県・紀伊山地の山奥。はるか昔、弘法大師が開いた天空の霊場が「高野山」です。この地は日本を代表する真言密教の聖地であり、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」のひとつでもあります。そこで今回は、高野山の歴史や、壇上伽藍(だんじょうがらん)などの代表的な見どころに迫ります。
和歌山県・紀伊山地の山奥。はるか昔、弘法大師が開いた天空の霊場が「高野山」です。この地は日本を代表する真言密教の聖地であり、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」のひとつでもあります。そこで今回は、高野山の歴史や、壇上伽藍(だんじょうがらん)(以下画像)などの代表的な見どころに迫ります。
2015年に開創1200年を迎えた高野山(総本山金剛峯寺)(画像)は、弘法大師・空海が開いた真言密教の総本山です。前述の通り、世界遺産としても有名なこの寺を、「高野山」や「総本山金剛峯寺」といった名称で耳にしたことがあるのではないでしょうか。
寺なのに「高野山」とも呼ばれる理由。それは山全体が寺の境内地「一山境内地(いっさんけいだいち)」として考えられているためです。
つまり、山そのものが総本山金剛峯寺であり、この寺に属する117もの子院(しいん)・塔頭寺院(たっちゅうじいん)が、山中のあちこちに建っています。
ちなみに、僧侶以外が寝泊まりできる「宿坊」も塔頭寺院にあたります。
“犬も歩けば寺に当たる”と言っても過言ではないほど、京都にはさまざまな宗派の総本山が集まっています。高野山がかつての都・平安京の時代に開かれたことを考えると、京都に住所があってもおかしくありません。
しかし弘法大師は、都から1,000キロメートルも離れた、ひと1人も住まないような険しい山で教えを開きました。
ことの起こりは、弘法大師が当時の中国・唐での密教留学を終えて帰国する時のこと。身につけた教えを広めるべく、「最良の地が見つかるように」と密教の法具・三鈷(さんこ)を日本へ向かって投げました。
帰国後の弘法大師は、三鈷の行方を追う道中で、2匹の犬を連れた猟師や、「山の主」と名乗る女性と出会います。そして導かれるままに険しい山中を進むと、目の前に高野山の大地が現れました。この山の松の木に三鈷がかかっていたことから、「この地こそ真言密教にふさわしい」と開創を決意したと伝えられています。
その謂われを今に伝える松の木が、後に紹介する壇上伽藍(だんじょうがらん)で大切に育てられています。
ここでは1200年以上もの歴史がある寺院ならではの、仏教建築をご紹介します。
高野山真言宗の総本山。ここでは高野山全体の宗務が執り行われています。
写真左奥、柵の囲いが施されている「大玄関」は、かつては天皇や皇族、高野山の重職だけが出入りを許されました。
一方、四角いのれんのようなものがかかっている右端を「小玄関」と呼び、上級職の僧専用の入り口として使われています。一般の僧は一般参詣入り口を利用します。
境内の拝観は可能で、国内最大級の石庭「蟠龍庭(ばんりゅうてい)」など、歴史的にも貴重な文化財を見学できます。
金剛峯寺の建造物の中で最も古い建物。画面中央に見える入り口も、金剛峯寺の大玄関と同じく天皇や皇族、高野山の重職だけが出入りを許されていました。
一般の僧侶は、正門の横に設けられた小さなくぐり戸を利用しています。門ひとつをとっても、戒律が厳しく定められていることがお分かりでしょう。
弘法大師が開創する際、最初に着手したのが壇上伽藍です。完成から今まで、この伽藍が信仰の中心となってきました。
高野山では、一般の方がその教えを体験できる講座を用意しています。その中から写経をご紹介します。
6世紀に仏教が日本へ伝来して以降、教えを広めるために様々な宗派で盛んに行われてきた「写経」。真言宗でも、経典を書き写すことは重要な修行のひとつとされています。
弘法大師の教えにのっとって、お経を一字一句書き写せば、先祖の供養や諸願成就の祈念になります。また書き写す行為は気持ちを静め、豊かな精神を育む手助けにもなるでしょう。
まるで時が止まったかのように、神秘的で荘厳な雰囲気がただよう高野山。その教えと歴史に触れる旅に出かけてみませんか。
※掲載されている情報は平成30年8月現在のものです。