2019年02月15日

語源・由来|「割り勘/銀行」 お金にまつわる言葉の語源

今回は「お金」にまつわる言葉の語源をご紹介します。私たちが普段、気軽に行っている「割り勘」の意外な発案者や、他国での支払いのマナー。お金を扱う「銀行」に「銀」の字が使われた理由や貨幣としての「銀」についてなど、江戸から明治の歴史も合わせてお楽しみください。


今回は「お金」にまつわる言葉の語源をご紹介します。私たちが普段、気軽に行っている「割り勘」の意外な発案者、お金を扱う「銀行」に「銀」の字が使われた理由など、江戸から明治の歴史も合わせてお楽しみください。

人気作家・山東京伝が考案 「割り勘」

 

数人で食事に行き、支払いの際に、費用を各自が均等に分担することを「割り勘」といいます。「割り」は人数割りのこと、「勘」は「勘定」のことです。

割り勘は略語で、正しくは「割り前勘定」といいます。「割り」は割り当てや配分のことで、「前」は5人前、分け前など、名詞や動詞の連用形について、それに相当する分量や部分、金額などを表す接尾語です。「勘定」は数を数えることや支払いをすること。つまり割り勘は、支払いをそれぞれに割り当てて支払いをすること、となるのです。

この「割り勘」を始めたのは、江戸時代の後期に浮世絵師、戯作者として活躍した山東 京伝(さんとう きょうでん)といわれます。当時、仲間と飲食する時の支払いは、代表者が総額を支払うことが一般的でした。しかし、商売人でもあり、金銭勘定に細かかったといわれる京伝は、総額を参会者の人数で割って支払う方法を考案し、その方法は「京伝勘定」とも呼ばれるようになりました。

費用を頭割りする方法は、「兵隊勘定」ともいいます。これは明治時代、日露戦争の頃に流行した呼び方で、明日の生死はわからないから、あるいは同じ兵隊同士だから、互いに貸し借りなしで均等に負担するという考え方からできた言葉といいます。割り前勘定を略した「割り勘」という言い方が見られるようになるのは大正時代末期ごろからです。

現代日本の私たちからすると、割り勘は気兼ねなく飲食できる、効率のよい支払い方法と考えられます。しかし、食事の代金を割り勘にする風習が広まっている国は珍しく、他国では、代表者がまとめて支払う、自分が飲食した分を支払うなどの方法がとられます。とりわけ、中国や韓国では年長者や食事に誘った人が支払うことになっているため、割り勘を申し出ると失礼にあたるそうです。外国で食事をする際は国ごとの支払い時のマナーをよく確認しておきましょう。

「金行」とする案もあった 銀行

 

Bankの訳語として作られた言葉である「銀行」が、訳語として登場するのは、明治5年のこと。その業務が「お金を扱う店」ということから、お金、すなわち金や銀、それに中国語で店や商人組合を意味する「行」を組み合わせた「金行」「銀行」という案が検討されました。とすると金行でもよかったように思いますが、なぜ、銀行が採用されたのでしょうか。実は当時、国内では金より銀の流通量が多かったということ、隣国の中国が銀本位制をとっていたこと(本位貨幣とは、国の貨幣制度の基本となる貨幣)、さらに、発音のしやすさから「銀行」が採用されたといいます。

それでは、貨幣としての「銀」の歴史に目を向けてみましょう。
江戸時代には金貨、銀貨、銭貨の三種類が並行して流通していました。ちなみに、このうちの銀貨の鋳造、銀の地金の売買を担った場所につけられた名前が「銀座」です。東京の銀座が有名ですが、当時は京都の伏見銀座、静岡の駿府銀座など、各地に銀座がありました。現在では、銀座は繁華街の代名詞となり、全国に数多くの「○○銀座」ができるに至ります。

日本では、明治4年に「金本位制」が採択され、当時1円=純金1.5グラムと換算されて金貨が発行されています。しかし、その頃、海外との貿易には銀貨が使われていました。明治11年には一般にも1円銀貨が通用することとなり、明治18年には事実上、銀本位制となりました。「銀行」という言葉も当初は官庁などで使われる専門用語だったのが、明治10年頃から一般にも定着するようになります。やがて明治30年に貨幣法が制定され、金本位制が正式に採用され、銀貨は補助貨幣となりました。

激動の明治時代、欧米先進国に追いつくべく、近代的な貨幣制度の確立が目指されるなか、銀は日本の貨幣制度変革の過渡期を支えていた存在だったといえるでしょう。「銀行」に残された銀の字から、歴史に思いをはせてみてはいかがでしょうか。