2017年05月11日

文化|「母の日」 母へ感謝の気持ちを伝える記念日

5月の第2日曜日といえば「母の日」。実のお母さんはもちろん、パートナーのお母さん、母親のように慕っている年上の女性などにも、この日に感謝の気持ちを伝えるという方は多いのではないでしょうか。今回はそんな「母の日」の由来や、カーネーションを贈る慣習などにまつわるエピソードをご紹介します。


5月の第2日曜日といえば「母の日」。実のお母さんはもちろん、パートナーのお母さん、母親のように慕っている年上の女性などにも、この日に感謝の気持ちを伝えるという方は多いのではないでしょうか。今回はそんな「母の日」の由来や、カーネーションを贈る慣習などにまつわるエピソードをご紹介します。

 

「母の日」のルーツはアメリカの心やさしい少女にあり

世界では、国ごとに時期も由来も異なるさまざまな「母の日」が制定されています。1年を通してみても、2月から12月まで毎月必ずどこかの国の「母の日」があるのです。
また次のように、母の日の慣習にも国によってそれぞれ違いが見られます。

・オーストラリア・・・母の日にはカーネーションではなく「菊(ガーベラ)」を贈りレストランで朝食をとる ・韓国・・・母の日、父の日ではなく「父母の日」がある ・アルゼンチン・・・家族や母子でなくても知り合いと「母の日おめでとう」と言い合う

世界の国々でも花のプレゼントは母の日の定番ですが、ミニバラ(フィンランド)や白いジャスミン(タイ)など、カーネーション以外の花を贈る国も多いようです。

5月の第2日曜日、日本の「母の日」のルーツは、20世紀初めのアメリカにあります。明治40年(1907年)、母親を早くに亡くした少女アンナ・ジャービスが、母の没後2年目に、教会で偲ぶ会を設けたというもの。その際、アンナの母が好きだった白いカーネーションを参加者へと手渡したのが、「母の日の花といえばカーネーション」という定説が広まったきっかけなのだとか。
ちなみに、「母の日」の花といえば白よりも「赤いカーネーション」が定番ですが、これは「母親が亡くなっているなら白、存命なら赤いカーネーション」という本来の慣習が、母親を亡くした方への配慮からどちらも赤いカーネーションになったのだそうです。

日本の「母の日」は青山学院から広まった

この「母の日」を日本で広めるきっかけとなったのは、青山学院のルーツとなった学校でした。明治時代から昭和初期、青山学院の前身である海岸女学校・青山女学院に関わった3人の女性宣教師たちが、アメリカで生まれた「母の日」の由来や行事について伝え聞き、日本にもこの記念日を広めようと尽力したのです。日本で初めて「母の日」の行事が行われたのは、アンナ・ジャービスが母を偲ぶ会を設けたわずか6年後の大正2年(1913年)のことでした。ちなみに、現在のように5月の第2日曜日の「母の日」が広く一般的な記念日となったのは、日本初の「母の日」から第二次世界大戦を経て35年以上も後のことです。

実は「母の日反対派」に転じていたアンナ・ジャービス

さて、「母の日」という素敵な記念日を世に広めることとなったアンナ・ジャービスですが、実は後年になって、自ら「母の日」に反対する運動を繰り広げています。というのも彼女は、母に感謝する日であったはずの「母の日」が、年々様変わりしていくことに、とても心を痛めていたのです。家族が母と過ごし、日ごろの感謝の気持ちを伝えるはずだったその日には、いつしか花やプレゼントを贈る、食事をするといった華やかなイベントが加わるようになり、彼女は「子どもたちの母への思いは商業的に利用されるようになってしまった」と感じていました。そして本来の意味での「母の日」を取り戻そうと、生涯働きかけ続けたのです。

「母に感謝する気持ち」が何よりも大切

 

アメリカや日本で広まっていった「母の日」のように、とっておきのプレゼントを用意したり、会食の席を設けて楽しい時間を作るのも、この日の素敵な過ごし方ではありますが、母の日本来の目的は、アンナ・ジャービスが生涯をかけて訴え続けた「母に感謝する気持ちを伝える」ことにあります。
時には、華やかなイベントやプレゼントで「母の日」を祝うだけでなく、手のかかる家事をお母さんに代わって家族が行うことでお休みしてもらったり、親子でゆっくり話をする時間を作ってみたり、心を込めた手紙を用意するなどしてみてはいかがでしょうか。また、先に旅立っていったお母さんのことを偲び、想い出とともにあらためて感謝するのもよいかと思います。誰もが、お母さんへの思いを確かめる大切な日にしたいですね。